FBでフォローしている人が感想を書いていておもしろそうだと思って読んだ本。
日本語訳は ”ピダハン「言語本能」を超える文化と世界観” みすず書房 っで3570円。
たっ高い! 英語のペーパーバックは新しい本ではないので安かったので英語で読むことにした。
筆者は言語学者兼宣教師としてアマゾンのPirahaという部族と1970年代後半から30年に渡って
短期、長期または家族とともに過ごした。
Piraha は約400人余りしかいない部族でアマゾンのインデイオの中で200年以上も外部との接触が
ありながら、最後まで独自の言語と生活習慣と文化を保持しているといわれている部族だ。
Everett氏の目標は彼らの言語をフィールドワークとして研究し、一方宣教師として聖書を彼らの言語に
翻訳することである。
彼はアメリカのプロテスタントの信仰を持っており、滞在するための費用は宣教団からもらっている。
彼は大変な努力をしてPirahaの言語を習得し、彼らの良き理解者、友人となっていく。
その過程でPirahaの言語はとてもユニークなものだということがわかってくる。 ちょっと似たようのは
メキシコのある部族だとかアフリカの何とかという部族にもある。。。といった話も出てくるのだが、
ユニークな点がいくつもある、とか包括しているというのでは滅多にない言語だというので言語学者の
中に議論を呼び起こす。
この本の前半はEverett氏のPiraha部族との関わりあいの中でも興味深い体験談が語られ、
その辺は読みやすくおもしろい。
それから言語学者が書いているのだから当然のことながら、言語学から見たPiraha言語についての
長い記述がある。 これはちょっと私にはきつかった。 チョムスキーだの、ソシュールだのと
何十年ぶりに名前を聞いたと同時に何べん読んでもどうしても理解できないという学生時代の暗黒の
思い出も浮上してきた。 それに帰納的とか演繹的とか、最近物事を考えていないので、あれっ、これって
どっちだっけ?と頭の中がぐるぐるしたり。。。。
言語学者が人間の言語ならこうあるべきだとか文化人類学者が人間は遺伝子的にこういう性質を
持っているはずだという主張をくつがえすようなことがいろいろ出てくる。 筆者は言語と文化は切り離せない
からその文化に必要な言語しか存在しないということを主張する。
一般の言語は過去現在未来にはじまっていろいろな時制があったりするが、Pirahaは現在とそれに近い
過去にしか言及しない。 Pirahaに歴史も物語もましてや創世神話はない。 彼らにとって過去は自分が
会ったことがある人の時代まで。 つまり祖父母あたりまで。 自分の目にしたことしか言わないから
これからどうなるという未来形もない。
彼らは” ここ と 今”に生きる人達なのだ。 そして外部の豊か(に見える?)文化にもさして興味を
示さず、自分たちの文化が一番だと思っている。
そして彼らはいつも機嫌良く笑っていて幸福なのだ。
そういう彼らに何とかキリスト教を伝道しようとする筆者だが、”要らない”と拒否されてしまう。
結論として、Everettはその中で自分の信仰に疑問を持つようになり、最後は無神論者になる。
詳しくは書かれていないけど、アマゾンの奥地で苦労をともにした妻(ブラジルでの
宣教師の娘として
育った)とは決別してしまうようだ。
私はアマゾンの奥地の少数民族ではないので、Pirahaの文化を諸手を上げて受け入れるわけには
いかないが、ひたすら今に生きる彼らはある意味、悟っているのかもしれない。